柳田國男生誕の地 福崎町 その1
今回、典太郎がやって来たのは、民俗学者柳田國男生誕の地兵庫県 福崎町です。
JR山陽本線 姫路駅で播但線に乗換えると、30分ほどで福崎駅に到着します。

駅前に、駅舎よりも高く「柳田國男生誕の町」をアピールする看板があります。
この町には、もちろんこの看板だけでなく、
柳田國男の生家や、
柳田國男・松岡家顕彰会記念館、
柳田國男生誕の地の石碑などがあります。
え?「柳田國男って誰?」ですって? 知らないのですか。
それはけしからん。腕立て伏せをしながら反省した上で、調べて下さい。
典太郎も調べます。
・・・調査中・・・
チーン。調べました。
柳田國男先生とは、こんな方です。
農政学者。民俗学者。
明治8年(1875年)父松岡操、母たけの六男として生まれました。
上京後、森鴎外と出会ったり、歌人松浦萩坪に師事し田山花袋と知り合い、島崎藤村や国木田独歩とも親交を持ち、『文学界』に新体詩を発表するなど、文学に傾倒しました。
その後「なぜに農民は貧なりや」と、社会構造に対する鋭い疑問を持ち、
文学への傾倒を絶ち、農政学を志しました。
東京帝大卒業後、農商務省農務局農政課に勤め、
法制局参事官を経て貴族院書記官長になりました。
講演会などで地方の実情に触れるうちに、次第に民族的なものへの関心を強め、
官職のかたわら『遠野物語』などの民俗学への道となる書を著しました。
また『郷土研究』の創刊は、民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎となりました。
大正8年(1919年)退官し、翌年朝日新聞社の客員として全国を調査旅行し、
『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』の三部作を著しました。
大正13年(1924年)同新聞社に論説委員として入社し、
退職までの6年間に389本の社説を書き、その2割近くが農政関連でありました。
新聞社を退職後は民俗学に専念し、自宅で民間伝承論講義を行うなど、
死去する日まで民俗学に心血を注ぎ、研究し続けました。
昭和10年(1935年)に著した『郷土生活の研究法』のなかで、
「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」
と述べ、ごく普通の百姓たる「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学においては、文献資料にのみ依拠することには限界と危険があり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと述べています。
他にも『国史と民俗学』『民間伝承』『蝸牛考』『桃太郎の誕生』『海上の道』
等、著作は多数あります。
福崎町名誉町民第1号。文化勲章受章。正三位勲一等。
ちなみに姓が「柳田」なのは、
明治34年(1901年)大審院判事柳田直平の養子となったからです。
さらにちなみに、「柳田」は「やなぎだ」ではなく「やなぎた」と読みます。
思いの外、前置きが長くなってしまいました。
次回から、福崎町をうろうろしてみようと思います。
JR山陽本線 姫路駅で播但線に乗換えると、30分ほどで福崎駅に到着します。

駅前に、駅舎よりも高く「柳田國男生誕の町」をアピールする看板があります。
この町には、もちろんこの看板だけでなく、
柳田國男の生家や、
柳田國男・松岡家顕彰会記念館、
柳田國男生誕の地の石碑などがあります。
余談ですが、典太郎がここを訪れてから、もう10日ほども経ちます。
すぐにでもこれを書こうと思っていたのですが、あれやこれやしている内に、どんどん日にちが過ぎてしまいました。するべき事はさっさとしないといけませんね。
教訓:光陰矢の如し
すぐにでもこれを書こうと思っていたのですが、あれやこれやしている内に、どんどん日にちが過ぎてしまいました。するべき事はさっさとしないといけませんね。
教訓:光陰矢の如し
え?「柳田國男って誰?」ですって? 知らないのですか。
それはけしからん。腕立て伏せをしながら反省した上で、調べて下さい。
典太郎も調べます。
・・・調査中・・・
チーン。調べました。
柳田國男先生とは、こんな方です。
農政学者。民俗学者。
明治8年(1875年)父松岡操、母たけの六男として生まれました。
上京後、森鴎外と出会ったり、歌人松浦萩坪に師事し田山花袋と知り合い、島崎藤村や国木田独歩とも親交を持ち、『文学界』に新体詩を発表するなど、文学に傾倒しました。
その後「なぜに農民は貧なりや」と、社会構造に対する鋭い疑問を持ち、
文学への傾倒を絶ち、農政学を志しました。
東京帝大卒業後、農商務省農務局農政課に勤め、
法制局参事官を経て貴族院書記官長になりました。
講演会などで地方の実情に触れるうちに、次第に民族的なものへの関心を強め、
官職のかたわら『遠野物語』などの民俗学への道となる書を著しました。
また『郷土研究』の創刊は、民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎となりました。
大正8年(1919年)退官し、翌年朝日新聞社の客員として全国を調査旅行し、
『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』の三部作を著しました。
大正13年(1924年)同新聞社に論説委員として入社し、
退職までの6年間に389本の社説を書き、その2割近くが農政関連でありました。
新聞社を退職後は民俗学に専念し、自宅で民間伝承論講義を行うなど、
死去する日まで民俗学に心血を注ぎ、研究し続けました。
昭和10年(1935年)に著した『郷土生活の研究法』のなかで、
「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」
と述べ、ごく普通の百姓たる「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学においては、文献資料にのみ依拠することには限界と危険があり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと述べています。
他にも『国史と民俗学』『民間伝承』『蝸牛考』『桃太郎の誕生』『海上の道』
等、著作は多数あります。
福崎町名誉町民第1号。文化勲章受章。正三位勲一等。
ちなみに姓が「柳田」なのは、
明治34年(1901年)大審院判事柳田直平の養子となったからです。
さらにちなみに、「柳田」は「やなぎだ」ではなく「やなぎた」と読みます。
良い子の豆知識
國男先生の兄弟には、有名人が多くいます。
長男は、千葉県で医師をしていた 松岡鼎 で、千葉県郡会議員、布佐町長等となり、地方自治に大きく貢献しました。
三男は、医師井上碩平の養子となった、国文学者、歌人、医師 井上通泰(松岡泰蔵)で、宮中顧問官、貴族院議員、芸術院会員、御歌所寄人等に任ぜられ、『万葉集新考』『播磨国風土記新考』等多数の書を著しました。
七男は、海軍兵学校を首席で卒業し海軍大佐となった後、言語学者となり『日本古語大辞典』『蘭和辞典』『太平洋民族誌』等を著した 松岡静雄 です。
八男は、東京美術学校卒業後に同校の教授となり、大和絵の研鑚と発展に生涯をかけ、新興大和絵会、国画院を結成した日本画家 松岡映丘(松岡輝夫) です。
國男先生の兄弟には、有名人が多くいます。
長男は、千葉県で医師をしていた 松岡鼎 で、千葉県郡会議員、布佐町長等となり、地方自治に大きく貢献しました。
三男は、医師井上碩平の養子となった、国文学者、歌人、医師 井上通泰(松岡泰蔵)で、宮中顧問官、貴族院議員、芸術院会員、御歌所寄人等に任ぜられ、『万葉集新考』『播磨国風土記新考』等多数の書を著しました。
七男は、海軍兵学校を首席で卒業し海軍大佐となった後、言語学者となり『日本古語大辞典』『蘭和辞典』『太平洋民族誌』等を著した 松岡静雄 です。
八男は、東京美術学校卒業後に同校の教授となり、大和絵の研鑚と発展に生涯をかけ、新興大和絵会、国画院を結成した日本画家 松岡映丘(松岡輝夫) です。
思いの外、前置きが長くなってしまいました。
次回から、福崎町をうろうろしてみようと思います。


